真の意味での「ユートピア(理想郷)」とは? - 書評あれこれ~

あらすじ 真の意味での「ユートピア(理想郷)」とは? 読書感想文

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解説あらすじ・読書感想文・解説 トーマス・モア著 平井正穂訳「ユートピア」岩波文庫を読みました。

《ただし、「ユートピア」という言葉を用いるときには時に注意が必要である。現代人が素朴に「理想郷」としてイメージするユートピアとは違い、トマス・モアらによる「ユートピア」には非人間的な管理社会の色彩が強く、決して自由主義的・牧歌的な理想郷(アルカディア)ではないためである》

出典 wikipedia


 にあるように、通常、「理想郷」と言われて思い描く、「エデンの園」のような「地上の楽園」とは程遠く、むしろ「共産主義」を髣髴とさせてしまいます。

 例えば以下のような文章、

《ただし、それが相当兇悪な犯罪の時には勧善懲悪的な意味から公開の懲罰が加えられる。しかし大体において兇悪な犯罪に対しては仮借なく奴隷系にするのが普通である。この方が手っ取り早く死刑にしてしまって厄介払いをするよりも、犯人自身の苦しみは変らないにしても国家にとっては一層有利であると想像されているからである。》P136

《奴隷にするのは彼ら自身の同胞で兇悪な犯罪を犯したため自由を剥奪された者か、他国の都市で思い罪科の為に死刑の宣告を受けた者かに限られている。特に後者はその数も多いが、その大半は、時にはごく僅かな代価で買われてくることもあるが、大体は無償で買われてくる。この種の奴隷は年中無休で労役に使われるばかりでなく、足枷まではめさせられている。しかしもう一方の奴隷、すなわち同国人の奴隷の方は、その待遇はもっと残酷である。ユートピア人によれば、この連中はもともと立派な国に生れ、敬虔な雰囲気の中に真実な人間となるよう育てられて来たのである。それなのにずるずると悪の誘惑に引ずり込まれたということは、全く度がしがたい人間というほかはなく、苛酷な刑に充分値するというのである。》P130

奴隷という言葉が出てくるところから、"抑圧"や"独裁"といったイメージを連想させてしまいました。
 ところが、法による明確な賞罰が国の安定を支えるという考えからすると、決して全てが楽園のようにはいかないのだなと思いました。

 一方で全体主義、社会主義といっても以下のような正の側面をあるということを気付かされました。

《かように、ユートピア人は友邦に加えられた不法行為に対し、たとえそれが単なる金銭問題であっても、あいくまでその責任を追求しないではやまない。しかし事いったん彼ら自身の問題となると、必らずしもそうではない。例えば、ひどい詐欺行為にかかって自分たちの財産をとられるというようなことがあっても、身体に暴力を加えられない限り、ただ相手が辨償するまでその国との取引を中止することによって鬱憤を晴らすにすぎない。これは友邦の国よりも自国の国民の方を軽んじているからではない。むしろ、自分たちが金銭を失うことよりも、友邦の国民が金銭を失うことの方が遥かに重大な意味を持っていると考えるからだ。つまり、友邦の人々と取引する商人が失った財産はすべてその商人個人のものであり、したがってその損失による打撃はそれだけ大きいのに比し、ユートピア市民の損失は要するに共有財産の損失にほかならないし、その上そんなものは少しよそにやらなければ困るほど沢山にあるというわけで、その財産の損失をくやむ者は一人もいないからである。》P147

 管理社会というと"抑圧"や"独裁"というイメージが強いですが、ユートピアの中で描いている世界では上記の文章のように、「全体のために個を犠牲にするのではなく、時に全体が個を援助する、もしくは個を援助するために全体の利益を蓄えておく」という考えがあります。

 そのような考えが伺える文章いくつかありました。例えば、

《けれども、田舎のどんなところへ行っても、午前中の自分の仕事を片付けるとか、夕食前にいつもやることになっている一定の分量の仕事をやりあげるとか、しなければ、食事はあたえられない。このような法律や条件を守るかぎりは、自分の都市の管轄区域ならどこへ行こうと自由である。なぜなら、市内にいようがいまいが、市そのもののために働いていることは変りがないからである。》P98

 「なぜなら、市内にいようがいまいが、市そのもののために働いていることは変りがないからである。」という文章が興味深いと思いました。

 ユートピアの社会では現代のように、どこかの企業に属して労働の対価をもらっているのではない。例えれば、皆が公務員で、市のために働いて市から労働の対価を得ている。
 これがどういう事を意味するかというと、労働を行わなければならない範囲が区域だけでなく、労働の対象も広がりを持たせることが出来る可能性があるのではないかと思います。
 ベーシックインカムという言葉があるように「人間は生きる行為そのものが仕事である」という考え方がある。
 拡大解釈すると、主婦が家事を行うことも仕事であるし、また企業で生産的活動をしていないまでも、他人の相談に乗る、創作活動をする等、現代の資本主義社会では、お金を金銭の授受が発生しない活動に対して政府や市がお金を払うという考えがあってもいいような気もする。

《それは、労働には僅か六時間の時間しか当てられていないということを見て、あなた方はおそらくこういう状態では若干の必要な物資が欠乏するのではないかと考えるかもしれないということである。しかし事実はけっしてそうではない。生活の必需品にしろ文化品にしろ、あらゆる必要な物資を潤沢豊富にそろえるのには、六時間という時間は決して足らないどころか、むしろ多すぎるくらいなのである。このことは、他の国々においてはどんなに多くの国民があそんで生活しているか、ということをとっくり検討する時、自ずと判明することができる。》P84

利益を各個人が管理するのではなく、政府が各個人の利益を管理すれば、一日六時間の労働でも必要な資源を供給するためにはむしろ充分過ぎるほどであると書かれています。
 一日六時間の労働で全員に供給する事が出来る充分な資産を保有する事が出来るのなら、現代では"仕事"としてその対価が支払われない活動に対して、政府が労働の対価を変って払うという考えもあってよいのではないかと思いました。

《しかしそれとは逆に、他人に利益を与えるために自分の利益をいくらかでも犠牲にするということは、じつに愛情と高貴さにみちた行為である。もっともこの行為は、必ずしも自分の利益を犠牲にするというより、むしろ大きな利益をもたらすといってもよいものである。なぜなら、まず第一に、それはいろいろな恩恵をもって報いられるからである。次に、善行をしたという意識、相手のしめした愛情と感謝のしるしの記憶、そういったものが、自分のみを削って相手にほどこしたものが本来ならわれわれの肉体に与えるはずであった快楽よりも、さらに大きな快楽をわれわれの心に与えてくれるからだある。(中略)そういうわけで、この問題を充分に考えた結果、人間のすべての行為は、いやすべての徳そのものでさえ究極的には快楽をその目的ともし、幸福の源ともしていると、彼らは考えるのである。》P114

 モアの唱えるユートピアは決して、エデンの園のような楽園ではない。資材や資産を国が管理することで衣食住が十分に保証されるとともに、刑罰によって国の安全も保証されています。こうした安全や生活に関わる必要物資を国が保証することで、国民は幸福の源である快楽を追求することが出来るのだと思います。つまり、生活に必要な基盤を国が保証する事で、生きるための労務や、外部からの危害から解放されて、自らの幸福を追求するための行為に集中することが出来る社会がモアの唱えるユートピアなのだと思いました。






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